ゲームのない時代。痛くて怖くて面白い。
コロナ騒ぎです。(2020年9月の記)
ふと、諏訪盆地の夜景を思い出しました。
2年程前まで年に数度ですが山に行っていました。
木更津からですと結構な距離があります。
で、私の中では選択肢は一つしかなく
当然夜走りです。
アクアラインから首都高、そして中央高速を行きます。。
途中、右手の暗闇の中,
突然宝石をちりばめたような諏訪の夜景が見えます。
特にブルーと白が夜の黒の中で静かにひかり、
その綺麗さに毎回危険なよそ見運転になってしまうのです。
その時には何も考えませんでしたが
あの光りの一つ一つは一生懸命さや意欲やプライドなのです。
大丈夫なのでしょうか。
今も、この先も諏訪の人達の営みが
変わらず続くことを祈るばかりです。
御岳噴火の夜
御岳噴火のその日の真夜中、
私は北岳(高さ2位)に登るために
中央高速を走っていました。
前方に点滅する沢山の赤灯がみえます。
接近すると
それは現地からの要請を受け御岳に向かう
東京消防庁レスキュー隊車両群でした。
サイレンを鳴らし
赤灯を点滅させ
編隊を組み
時速80キロで高速道を行く。
正直80キロの速度には驚きました。
私だったら多分200キロは出します。
馬鹿ですから。
それに対しある種の感銘を受け
敬意を持ってしばらく後について走りました。
しかし問題は早く行って一眠りしなければ
山で私がヤバいのです。
それに80キロなんかで走れば
寝てしまうかもしれません。(?)
編隊は二車線にまたがっていましたが
車間距離はありましたので
その間を丁寧に静かに縫って前に出ました。
その間、
赤い編隊は全く乱れることが有りませんでした。
北岳登山中は
何人もの下山してくる人たちから
噴火被害を尋ねられました。
皆真剣な表情でした。
私は仮眠をとってから
夜に出かけてきたので
その時には確か
犠牲者は4・5人との報道だったと思います。
ただそんなものでは済まない
ということは分かっていました。
その中の一人は
「何か御岳の方に変わった雲がでたな・・」
と思ったそうです。
快晴の北岳山頂から見えた噴煙は
遠くのために高さが1~2cm(?)で、
そこから青空の下を峰々の上を
真横に細く長くどこまでも伸びていました。
ご冥福をお祈りいたします。
槍ヶ岳
もう3年前にななるか。
10月のある日(23日だったか)
私は槍ヶ岳を目指しました。
槍は二度上ったことが有りますが、
二度とも新穂高からでした。
そして下山は新穂高と大丸山のルートでしたので
ぜひ一度槍沢ルートを歩いてみたかったのです。
二日ほど前に穂高は冠雪したらしく
頂上を狙うのは無理で,
行ける所まで行ったら引き返すつもりでした。
河童橋から見る穂高は雪をかぶっていましたし
河童橋を渡り川を右に見ての木道歩きでは
木道を覆う霜で二度ほどツーと長く滑り
前途多難と途中で引き返すことは覚悟しました。
横尾を過ぎると冠雪があったためか
他の登山者にはめったに会いませんでした。
天気も眺めも最高で雪もルート上には全くありません。
下りてくる人と会ったのは4人で
その話からルート上にはもう雪は無いようでした。
河童橋からの眺めからは
まるで嘘のようなルートの状態でした。
ただ問題が起きたのです。
くるぶしのあたりが
靴擦れで痛み出したのです。
ここ何年か、
ハイカットの登山靴に必要性を感じなくなっていて
使っていなかったのです。
しかし積雪と聞き
久々に防水性能の高いハイカットの登山靴を
履いてきたのです。
十分に履き慣れた靴ということで
何の心配もしていなかったのですが、
どうやらくるぶしの皮は
すっかり「やわ」になっていたようなのです。
痛みで歩き方が悪かったのか
周りに木々の緑が少なくなる辺りまで登ったころには
何でもないはずの膝までが痛み出しました。
痛いというだけで
これほど歩けなくなるのかと
自分でも驚くほどに足が止まってしまいます。
日没が近づき
一度は寄ってみたかった「殺生ヒュッテ」を右に見たころは
もう必死でそれどころではありませんでした。
山頂直下の山小屋は
もう殆ど営業休止と言う感じで
山小屋の晩御飯は私を含め三人です。
その一人は途中熊を見たそうで、
ビビりました。
もう疲労困憊で
何を食べても美味しい私が
山小屋のご飯を残しました。
雪は余りありませんでしたが
小屋からテント場までの地面は
がちがちに凍っていました。
いつもならいっぱいの槍のテント場も
他に二張だけで
お気に入りの崖っぷちも空いています。
震えながらテントを張り
冷たい缶ビールを一口だけ飲んで
泥のように眠りました。
目を覚ますとテント内はすっかり明るく
ファスナーを開けると晴天の朝で
目の前に真っ白な雪を付けた
大喰岳がありました。(オオバミダケ3100M?)
雪山登山は
その難しさや危険度において
私の山登りとは天地の差どころか全くの別物です。
雪山は絶対にやらないと固く決めている私にとって
このテントからの雪山の眺めというのは
見られるはずのない物で、
私にはもうラッキーというか
小さな奇跡なのです。
せっかくなので山頂に上がってみました。
雪は所々にしかありません。
そして誰もいません。
人気の槍ではめったにできない
山頂独り占めを満喫しました。
日程じょう帰りも槍沢コースになります。
下り始めてすぐに
それが新穂高方面であることに気付きましたが
なぜかもう上り返す気になりませんでした。
そして新穂高コースの
美しい記憶が頭をよぎったのです。
槍の巨大な斜面のどこにも
人の姿はありません。
恒例で亡き友の名を思いっきり呼びます。
そのつづら折りを下る間、
何度か振り返って
その眺めを記憶に焼き付けました。
私もそういう年になったのです。
ガレ場を過ぎ土が現れ
やがて木々の緑の中に入っていきました。
くるぶしは靴下の工夫にも関わらず
酷く痛みますが歩くしかありません。
行く手に若い小柄な女性が
石に腰かけて休んでいるのが見えました。
近づくと微笑んで声をかけて来ました。
ちょっとばかり驚きました。
だってその女性はたった一人だったし
鼻ピアスしてたし
スカーフで髪を包み
あごの下で結んでいたのです。
そして全然登山の格好ではない黒っぽい服で
背負っているのも小さな黒い布製でした。
靴だって極普通のスニーカーです。
しかしそれは私の格好を見て
「貴方何でそんな重装備で山歩きするの?」と
言い出してもおかしくないくらい
自然な感じでした。
(・・山で出会う外国の方の多くは軽装備で服装も様々・・・
韓国の方と日本人はほぼ100%完全登山スタイル・・・
モンベルさんの教育の・・・・・・)
彼女は英語の全くダメな私に
英語(? 多分)と身振りで何かを聞いてきました。
どうやら頂上までのおよその時間を知りたいようでした。
私は指で二を作り「ツー」
首を傾げて「スリー」
そして手のひらを少し曲げそれで槍の斜面を表現して
指先に当たる最後の上りがとてもきついことを伝えました。
「ベーリーーベーリーハーード」「アーユーOK」?
彼女はにっこり笑ってうなずき手を振り
結構な速さで上っていって視界から消えました。
でも歩き始めてすぐに、これはヤバイと思いました。
どう考えたって今から上に向かったら
彼女は明るいうちには下山できません。
上に向かって大声で叫びました。
「ノーー、スリーーノーー」
「ファーーイブ・ファーーイブ」・・・・
明るいうちに下山できないのはこっちも同じだ。
「痛いだけだ。
骨も筋肉もなんともないのだから歩けるはずだ」
と自分に言い聞かせました。
痛みを騙し騙しのろのろ下っていると
登山者が一人上がってくるのが見えました。
もう一目で山慣れしていることが分かるような方で
挨拶すると
「今しがた若いのが四人、次々水に落ちた。
まあ無事だったんだが止めて引き返した」という。
記憶がよみがえりました。
ともかく初めてその地形を見た時には
ショックで呆然としました。
突然目の前に広がる見たことの無い景色でした。
おびただしい数の白っぽい巨大な岩石が
盛り上がったように厚く重なりあう広い河原。
そこを音を立て勢いよく走り落ちる
大量の水にビビリました。
その時は一本丸太を渡ったのだが
その丸太は流されてしまい今は何も無いらしい。
あれはもう河原なんかではない。
その場所の名前も確か
「滝谷出会い」とか言うのです。
それからかなりが過ぎ
背後に人の気配がして振り向くと
あの女性がいました。
途中で引き返したようです。
私がやったように手のひらを曲げて
どこまで行ったか教えてくれました。
槍のかなり近くまでは行ったようです。
その子は手を振って、
岩から岩に飛ぶことを楽しんでいるかのように
かろやかに下っていきました。
やはり山は軽量化が絶対に有利なのです。
私も全ての装備を軽さで選び
アルミ鍋の蓋さへ持たないのですが
問題はテント泊装備なのです。
私の登山は動機が不純で
その40%くらいは
山でテントを張ることなのですから
どうしようもありません。
痛みのせいで足はのろく
時間ばかりが過ぎていきます。
私は普段なら立ち止まって休んだり
座ったりはしませんし
食べるのも歩きながらですが
酷い足の痛みで
何度も止まってしまいました。
河原に出ました。
その水音と水量に大変を覚悟しました。
増水により流れの幅は怖気づくのに十分で
しかも踏切って着地する石の表面は
いかにも滑りそうに見え
渡る決心がつきません。
見下ろす下流に渡れそうなところを見つけ
下りて行ってみるとそこもかなりヤバイ。
元、来たところまで息を切って登り返し
渡れる場所を探し歩き回るが
何処も水の勢いに圧倒されるばかりでした。
半分途方に暮れた時、
向こう岸の少し上流で
あの女性がこちらに手を振って
何か言っているのに気付きました。
向こうも私が気付いたことが分かったらしく
彼女のいるそのさらに上流を指さし
手招きしました。そ
してそちらに
軽い身のこなしで上がっていきました。
彼女が見つけたそこは
上手い具合に大きな石が折り重なり
流れの幅が狭くなっていて
透き通った水が
その隙間を物凄い速さで流れ下っていました。
ほんの少し勇気を出すだけで
靴もほとんど濡らさずに渡れました。
彼女は私を助けたことが嬉しそうでした。
お礼を言って握手をしました。
私も嬉しくって
このエピソードを写真に残したいと思い
ツーショットをお願いしたのですが
笑いながら手を横に振られてしまいました。
宗教的なものなのか
恥ずかしいからか
それとも私と同じ写真嫌いなのか・・・。
私はその失礼なお願いを3秒で取り下げ謝りました。
河原から上がってすぐの所で
このルート5回目の私が
彼女にささやかな恩返しをします。
石垣の所は道がとても分かりづらいのです。
彼女は手を振ると
岩から岩へ軽々と跳ねるように下って行きました。
それを見て心から彼女の幸運を祈りました。
下るにつれ道は平たんになります。
目にした紅葉の数は多くはありませんでした。
しかしその内の3本は
何れも小さな木でしたがその色と来たら
今まで見たことのない
完璧といえるような鮮やかな赤でした。
まいったのはルート上の山小屋が
全て営業終了となっていたことで
シャリバテと脱水症寸前でした。
やっとのことで新穂高にたどり着いた時には
もう暗くなっていて
上高地の方に行くバスはすでにありませんでした。
バス乗り場でエンジンを回したまま
時間待ちをしている大型バスの周りにも
誰一人いません。
バスに乗り込み運転手さんに宿の相談を持ち掛けました。
結局他に選択肢はなく
そのバスで平湯まで行くことになりました。
平湯はこの夏に、
おじさん二人を上高地に案内した時泊まっています。
平湯までの最終バスで他に乗客は無く
一番前に座り運転手さんとずっとお話しだ。
彼はとても話し上手で
彼らが去年行った京都旅行の話で大盛り上がりでした。
京都の紅葉に大感激したようです。
しかし私は数時間前に見た
穂高の赤には敵いっこないと思ったのです。
運転手さんの御勧めで宿は「平湯の森」でした 。
部屋で靴下を脱ぐと自分を含めて
今までも見たことがないくらい
足首は赤くぱんぱんに腫れていました。
温泉に入るとしみました。
食事処は広い板の間で
明るくて暖かくてにぎやかで
ワラを編んだ敷物に座り
自分で焼く飛騨地鶏とビールは
もうメチャメチャ美味く体にしみて
山なんかに行くのは馬鹿だと
本当に心の底から思いました。
本当にそう思いました。
実際いろいろなことが有って
あれ以来山には行っていません。
本当は槍と穂高と北岳くらいは
もう一度はいきたいのです。
しかし、もしもあの槍が最後の山行となったとしても
「私の登山の閉め」として十分なものでした。
進水式で
今日、よくお邪魔する館山市に
アクアミューズが一艇、
新オーナーに届けられる。
大抵は仲間で進水式をお祝いする。
新艇の周りを囲み
シャンパン(私、よく分かりませんが
皆さん結構な高級品を使用しているらしい)
を振りかけ乾杯をする。
なぜ振りかけるかというと
長さは4.1mだが
船体重量わずか25キロのFRPで
またその美しいすがたで
シャンパンのビンをぶつける気にならないのだ。
うちの奥さん以外は。
私がアクアミューズを手に入れた時には
中禅寺湖に集まるアクアびとを知らなかったし
まだN氏やK氏にもお会いしていなかったので
女房殿と二人、亀山湖で
形ばかりの進水式をやったのです。
古式にのっとり(?)用意した赤ワイン(シャンパンではなく赤ワイン・・高級ではない!!)
を女房殿に手渡し航海の安全と無事と幸運を祈って・・・・
目を開けた時でした。
ボトルを逆手に持った女房殿が
腕のいい大工の金槌みたいに
ラダー取り付け金具に
それを打ち付けたのです。
彼女にとって進水式はそうなのです。
それは何の躊躇もなくとても自然な感じでした。
ビンは割れ白い艇を赤く染め一瞬で消えました。
素晴らしく鮮明な記憶です。
正直、焦りました。
金具はステンレスの薄い板をV字に曲げ
それをリベットどめしてあるだけです。
そしてもう一つ。
彼女のスナップの使い方は半端ないのです。
彼女が球を投げるとホップするのですから。
***ホップ(球を縦方向に回転させることで
上下で空気抵抗に差ができ球が浮くこと)**
その後、何度か進水式に立ち会いましたが
その全てがシャンパンを振りかけるやり方でした 。
はっきり言います。
ビンが割れた方が絶対カッコいいです!!!。
女房殿の狙い所も実に的確だったようで
あの金具は今も何の問題もなく現役だ。
神社倒木作業。ハイガーチェンソーで
あの年、私達は台風の後処理で大変でした。
私は町内に在る山王様(日枝神社)の世話人だったのです。
任期は2年ですがその一年目に
あの台風が来たという分けです。
台風の去った朝、心配で山に行ってみました。
目にした光景はそれはもうすごいものでした。
下の鳥居の所から見ただけで
ただならない事が起きていることが分かりました。
長い石段の先、見上げる上の鳥居の向こうに
見えるはずのない空が見えていたからです。
おびただしい木の葉と折れた枝で
石段が埋もれていました。
山王様は上の鳥居の先に広場があり
さらにその先の石段を上がったところに社があります。
その常に薄暗いはずの広場には日が射し
倒木とその枝と葉っぱが高く重なり社も見えませんでした。
社の上方、社に向かって左斜面の巨木数本が
根こから倒されたのです。
奇跡的に、本当に奇跡的に、
巨木の太い枝の端が少し触っただけで
社に被害はありませんでした。
あの日から休みには世話人5人での倒木処理です。
私も50センチのチェーンソー
(中国製ハイガー・キャブとチェーンだけ高性能バージョン)
を買ってもらい振り回すことになったのです。
チェーンソーの危険は十分聞かされていましたので
ネットで勉強しまくりました。
(重機が入れない倒木処理は費用が高額。
対する神社のお賽銭は極少々。体で払うしか・・・・
時代劇に出てくる・・みたいですが・)
ビビったのは
伐採より倒木処理はずっと難しく危険だと知ったことで
そこが斜面ともなればなおさらで
その条件ではネットで検索しても
そんな情報は見つかりませんでした。
皆で段取りを工夫しこつこつやることで
誰も怪我することもなく年内には処理を終えました。
最後に残った倒木は
太さがチェーンソーの長さを軽く超える大物でしたので
私、し、しびれました。
映画のような ?
あれは小学校卒業した春休みだった。
S君とk君と私は、
今となってはなぜかは分からないが
多分君津市との境(今考えると多分・・)辺りまで山歩きをしたのだ。
山歩きと言っても水も食べ物もお金も持たないで目指す場所もない。
「こっちに行ってみようか?」というだけのものだ。
何を話しながら歩いたかは今も明確に覚えている。
大げさに言えば漠然とした未来への不安だ。
私は知らなかったが「Sっていう元、憲兵隊のおっかない先生がいて殴る」らしい。
黒の学生服を着て英語の勉強をしてSに殴られる。
そんな未来予想が三人で共有されたのだが、
かといってそれに怯えて沈んだりなどしなかった。
怖がってそれを面白がっていた。
三人はもうまるっきりの子供ではなかったのだ。
気付けばだいぶ遠くまで来ていて引き返すことにした。
帰りは鉄道線路を歩いた。
上り下りは無いし平らだし家まで最短だ。
鉄橋も渡った。線路に耳を当て列車が来ないかを確かめ(?)急いで渡った。
列車が来るのも怖かったが鉄橋は下が透けて見えてそれも怖かった。
少し行くと今度はトンネルだ。
馬込のトンネルは長くて(そう思った)右にカーブしていて見通せない。
怖いけれどここでも線路の音を聞いて大丈夫だということになる。
トンネルに入ると暗闇の中、線路の上を駆けた。
もしもトンネルの中で列車が来てしまえば
吸い込まれひかれて死んでしまう。
暗闇の中で外の光がカーブのあたりをわずかに白っぽく見せていた。
それが走っても走っても全然近づかない。
列車がもう来るのではないか。
とどんどん不安になる。
真っ暗な中を走り続ける。
何か宙に浮いているようで
走っているのに
前に進んでいる感じがない。
その時遠くで小さく「ぱーーーん」というような
あの警笛が聞こえた。
「来た!!」列車が来ちゃった。
どうしよう。
もう走っても間に合わないのは小学生(?)でも分かった。
どうして伏せることになったかは記憶にない。
ともかく三人ともトンネルの壁と敷石の間に伏せた。
線路と壁の間は思ったよりは広く
敷石で線路は高い位置にあって体を隠すには十分に思えた。
ただ巻き起こる風だけが心配だった。
私はその時怖かったはずだが
なぜか首をひねって上目でその全てを最初から最後までを見続けた。
カーブの壁がサーっと明るくなりライトを点けた列車が入ってきた。
暗闇の中列車内は明るく運転手も乗客も良く見えて
彼らがこちらに全然気づかず澄ましているのが不思議に見えた。
長いごう音と共に列車は通り過ぎた。
風も巻き起こらず吸い込まれず
怖かったけれどみんな無事だった。
大人になって映画「スタンド・バイ・ミー」を見た時はちょっと驚いた。
そっくりじゃん!!(?・・ 極一部・・?・)
中学校ではあのSが保健体育の担任で
実際、細身で皮膚は日焼けを通り越して異様に黒く
その細面の顔に小さめな黒縁眼鏡、
そして背が高く表情は精悍で決して笑わなかった。
なぜかその授業は常に静まり返っていた。
私の席は窓際で、その日はやる気が無く暑い日だったので
窓のガラスの隙間
(アルミサッシなどでなく木の窓枠で
なぜか一枚のガラスでなく二枚の継ぎ足しだった。)
から指4本外に出し外気に触れさせ冷却していた。
(内側の親指とでガラスを掴むように・・馬鹿ですから)
その時前の席の女の子が唐突に窓ガラスを引き開けた。
手の甲が窓枠に挟まれ
手の平の中でガラスが軽い音でパスと割れ
真っ赤な血が手の平いっぱいになり
床にボタボタとこぼれて、それを見た女子が「キャーー」と悲鳴をあげ
Sが「な・・・なにやってんだー」とすごいぎょうそうでにらみ・・・
授業は急遽自習になりSが自分の車で病院に連れて行ってくれた。
その間も私の有りえない間抜けぶりが面白かったらしく結構笑ったし
次の授業では私をいじって皆を笑わせてくれた。
Sは優しい先生だった。・・・・・
S先生と言わなくってごめんなさい。
良い子は真似をしてはいけません。
そのトンネルの出口は煉瓦積みででつくられていて、
上はまっ平らだ。
その縁は直線で縦の面は直角に線路に向かって切れ落ちている。
そこに立って下の線路を見れば目が眩んだ。
私の子供のころは集団で遊ぶのが普通で、
しかも結構な人数だったので、
その中で頭角を現そうとすれば
当然何かをやって見せなければならない。
彼がそんなことを考えたのかどうかは分からないけれど
T先輩はそのトンネルの縁に立ったのだ。
そして下を走る列車にむかって小便をした。
小便をする股の下からgaa---------っと列車が走り出る。
それは凄い眺めだった。
フラッといったら一巻の終わりだ。
それは結構長い時間に感じた。
今思い出しても本当に凄い光景だった。
当たり前だけれども
私は未だに
あれよりも強烈な小便を見たことがない。
湖畔の早朝
Oさんの家はダム湖のそばだ。
時間は7時くらいだったか。
吊り橋を渡って山道を上がってその左にOさんの家(セカンドハウス)があった。
どうやらまだお休みのようだった。
起こしてしまうと悪いので道の右側の尾根に行ってみる。
そこは岬のようにダム湖に突き出したところで
見下ろす湖面と木々の枝葉との距離感がとてもいい。
風はなく木の葉も動かず静かな朝だった
かすかな「ざーーー」と言うような軽い水音が聞こえて
右手から引き波を従えて釣り人の乗るエレキボートがやってくる。
無音で引き波が岸に当たって出来るざわめきだけが聞こえる。
釣り人はボートの上で微動だもせず私が見下ろす水面を通過する。
遠ざかる音がはっきり変わる。
ドップラー効果だ。
もう一隻来た。
音を聞く。
確かに近づいて来る音と遠ざかる音が違う。
面白い。
登りやすそうな木があったので登って見る。
上の方の枝も十分に太かったので樹上に胸まで出して立つことができた。
その眺めは思っても見なかった誠にのどかなもので
見渡す限りの緑の草原のようで、その上を歩けそうだった。
明るく輝き蝶や蜂が飛び回り方々で鳥が出たり入ったりしている。
不思議な樹上世界に見とれていると、
上の方から犬の荒い息づかいが聞こえてきた。
Oさんの犬だ。ダイか?
Oさんが飼っているのは大きくはないが熊とも戦うという甲斐犬3頭だ。
その内の1頭が明らかにこっちに向かっている。
そして耳を澄ませているともう一つ別の音が聞こえてくる。
カサコソ何かが落ち葉を踏む音だ。
犬たちの狩りだ。
大急ぎで木の葉が視界の邪魔にならない所まで下りた。
ハッハッっという息づかいが益々接近する。
岸辺に雄鹿が現れた。
2秒ほど立ち止まったと思ったら
2メートルくらい下の湖面に向かって飛んだ。
入れ替わりにボス犬ダイが現れる。
どうやら待ち伏せしていたらしい。
またドボンと水音がする。3匹目が右にいたらしい。泳いで鹿を追う。
2匹は岸で残念そうに逃げる鹿をちらちら見たり
じゃれ合ったりしている。
泳いだ犬も諦め引き返してくる。
鹿は逃げ切り対岸の林の中に駆け込むのが見えた。
上の方で私を探して呼ぶOさんの声がした。
いやーーいいもの見た。
早起きはいい。
Oさんはこのハンターたちのボスに仕込んでいたのが
「御手」なんかではなく「頭が高い」だ。
こんなOさんとの遊びは本当に面白かった。・・・
甲斐犬ダイという子犬
印象深い人って良くいいますよね。
犬にも忘れられないような犬ってのがあって
Oさんの飼い犬、ダイがそれだ。
ダイは子供のころから知っている。
それが生まれて4カ月めか7カ月めだったか忘れてしまったのだが、
間違いなくそのどちらかだ。
話には聞いていた。私の弟が奥さんを連れてお邪魔した時、
初めて見たダイは
Oさんと立ち話している人のズボンに噛みつき
可愛くぶら下がっていたらしい。
その日、Oさんが自分のお気に入りスポットを
いくつか案内してくれることになっていた。
初めて会ったダイは
もこもこのちっちゃな縫いぐるみみたいで
凄くかわいくって噛みついたりもしなかった。
驚いたのはOさんがこのちっちゃな縫いぐるみを連れていくというのだ。
大丈夫だという。
そしてもう一つ驚いたのは
ダイにリードを付けないことだった。
実際Oさんの言う通り、
山に入るとダイはしっかりと二人についてきた。
私達が歩いたところは散歩道などではなく文字どうりの山道で
この縫いぐるみみたいな可愛い小犬が懸命に歩く姿は物凄く場違いだ。
Oさんはさほど歩く速度に手加減を加えず、
どうやらこの縫いぐるみを鍛えるつもりのようだ。
ダイは甲斐犬という犬種で昔から狩猟に使われていたらしい。
疲れているのか、それとも寝る子は育つというのか、
私達がちょっとでも立ち止まると
顔を前足に乗せるようにして眠ってしまう。
もう止まった瞬間に眠ってしまう。
それがとてつもなくかわいい。
歩き始める時もOさんは「ダイ」なんて呼んで起こしてやったりなどしない。
ダイは私達の歩き始める気配でパット目を覚ましすぐに後を追いかける。
幼くしてもうかなりOさんに鍛えられているのはあきらかだ。
圧巻は山道に有った大きな水たまりの場面だった。
私達は何とか渡ることができて
ダイがどうするかを見ていた。
ダイは縁をいったり来たりを二度ほどやった後、
ポーンと飛んだ。
ポチャンと落ちてすぐこちらに向かって泳いでくる。
そして水をあがると一丁前にブルブルッとやった。
イノシシの巨大なぬたばや
凄い崖や小さな滝や黒文字の群生などを巡り
かなり歩き回ったがダイはその全てを歩きとおした。
Oさんの所に遊びに行くと時たま三頭の甲斐犬の出迎えを受ける。
出迎えは嬉しいのだが興奮しじゃれてくるとちょっとした恐怖だ。
その時はすかさず私は「ダイー」と叫ぶのだ。
私の「大航海時代の幕開け」 !!
今日舟とものNさんは
湘南の海で行われるレース「若大将カップ」に
アクアミューズで参戦する。
私達が乗るアクァミューズは
船尾も船首のように細くなって
形で言えばカナディアンカヌータイプで
イメージとしては川や湖だが
実際は海でも十分使える。
あの日、私は富津岬から館山を目指し出帆したのだ。
海苔養殖の網が整然と張られた海面を抜けると、
左に舵を切り館山の方向である真南に向かった。
空はどんより曇って海の色は灰色に見えた。
普段なら両側に見えるはずの神奈川も千葉の陸地も見えず
どんよりとした空気しか見えない。
そして何より気味悪いことは
普段なら必ずいる釣り船さえ一隻も見えなかった。
風と波は真後ろからで、
波は想像していたよりも大きく波速は私の舟よりわずかに速い。
その速度差が小さいために波はゆっくり近づいてきて
波に追いつかれると船尾が少し持ち上げられ
船首は浮力が消えたようにスーーッと沈む。
波の山がゆっくりとボトムから船首へ移動していって
船尾が下がりわずかに減速する。
それの繰り返しだ。
沈(横倒し)しないように
シート(帆を引く綱)を引き気味にし風を受ける量を減らす。
波に対しては一つ一つ丁寧に当て舵(車で言ったらごく軽い逆ハン)
を入れる。
全部の波にだ。
視界はわずかでずっと360度海しか見えない。
太平洋の真ん中を帆走しているような。
そんな気持ちになる。
不安が増してくる。
釣り船も漁師の船もいないということは、
天気予報が外れこれから海が荒れるのではないか。
ともかく自分の他には一隻も見なかった。
その内に時たま小さい雨粒が落ちてくる。
その時うすぼんやりした空気の右手沖側から漁船が一隻現れ、
100メーターくらい前を通り多分港であろう方向にエンジンをうならせ走り去っていく。
それがなんとなく急いでいるかのように思えた。
時間もまだ10時かそこいらだ。
お仕事終わりという時間ではない。
やはり私が家で見た波予報よりも海が荒れるのか。?
遠ざかる漁船をしばらく目で追うが灰色の景色に消えてしまう。
どう見てもヤバイ。
陸に向かい舵を切った。
陸地は近づいても黒と灰色にしかみえなかった。
座礁しないよう岸と平行気味に走らせて着底出来そうな砂浜を探す。
どうも岩場の方が多いい。
海に細く突き出した堤防の右によさそうな浜を見つけほっとしする。
良かった。
風も波もイージーそうで全く問題ない。
砂に乗り上げようと浜に対し真っすぐ走らせていると
突然舵が効かなくなった。
船尾を見ると跳ね上げ式のラダーが持ち上がってしまっている。
見れば海中はワカメとウゴか何か茶色と赤茶色の沢山の海藻でいっぱいだった。
・・・何だかんだワカメのある海まできたのだ。
着底したのは竹岡マリーナのすぐ近くの
北村造船所(家に帰ってから調べた)さんの砂浜だった。
造船所では若い船大工(大工と言っても主にFRPのようでした)さんが二人仕事をなさっていて
ドラム缶のたき火と温かいお茶を御馳走になった。
そしてこの辺りの
海の話や
海での失敗談や
海上保安庁のことなど
面白い話が沢山聞くことができた。
子供に迎えの車を頼み
この場所の目印を探しにすぐわきの国道に上がってみると
バス停の名前が何と「造船所前」というのだった。
あともう少しで金谷で、
その金谷は館山富津間の中間点だ。
この時館山まで行けることを確信した。
私のこの最初の大航海は
時間にすれば二時間半ほどだった。
バカは高いところに上る。そして落ちる !!
思いでと言っても去年のこと。
山王様神社世話人の仕事の一つが
御山を美しく整え維持することだ。
その日、仲間5人で長い石段を上から下まで掃き清め
下の鳥居の前の草を刈り邪魔な枝をはらったりしていた。
私はいつものように( バカは高いところに・・・)
脚立に乗り高いところの枝を鋸で切り落としていた。
昼が近くもう終わりにしましょうと声がかかって、
じゃこれだけやって終わりにしようと脚立を、
今思うと適当に立ててお気楽に上った。
そんな仕事は一分もかからないはずだった。
その脚立はアルミ製で足を掛けて登る部分が三角形をなし
それを一本のポールが支えるタイプで
底辺から頂点までが3.5mの結構大型だ。
頂点と言っても尖がっていなくて
両足でそこに立てる。
そしてそこには注意書きが貼ってある。
「天板には乗らないでください」
参道に覆いかぶさる二本の枝の一本に手をかけ
もう一本を鋸で引き始めた。
鋸は肩より高い位置だと引き辛く
腕というか肩の辺りがだるくなる。
それでつい天板にでも乗ることになる。
気が付くと、いつの間にか私は
地面に両足を投げ出した格好で座っていた。
M君たちが私の顔を覗いている。
体にも何か違和感がある。
どうやら脚立から落ちたらしいことはすぐ分かった。
落ちたことより気を失ったのだと知ってショックだった。
生まれて初めてのことだ。
とんでもないことをやってしまったのだ。
痛かったけれど無理して立ち上がり、
みんなにへましたことを謝った。
実際その時にはまだあまり痛みを感じていなかったし
平気を装ったので仲間の誰もてっぺんから落ちたとは思わなかった。
説明も大したことないようなふりをしてはしょった。
というのも自分自身脚立から落ちたことを全く覚えていないのだ。
記憶は脚立の上で枝を切っているところまでできっちり終わっていて、
なぜ落ちたのか、どんな態勢で落ちたのか、何を見たのか、
落下の恐怖や驚きでさえきれいさっぱり記憶にないのだ。
よく映画などで主人公が記憶喪失などと言う設定があるが
まさか自分が短時間とはいえ本当にきれいさっぱりその間の記憶を失ったのには驚いた。
凄く面白いと思うのは、
落ちて頭を打った後の記憶が無いのは分かるが、
頭を打つ前の記憶も全くない点だ。
3.5mの落下だと激突は時速29.8キロでそこまでの時間はわずか0.84秒だ。
脳の録画保存が完了するのにそれ以上かかるのか。
そうでなければ全ての脳細胞を落下からの生存に総動員でもしたのか。
不思議だ。
脳のダメージだけが心配だったので
家族には何か変だったら病院に連れていくよう言って、
自分でも匂いや味や話し方などに異常がないかをチェックした。
それは今でも少しだけだけれど意識している。
極まれには高齢者の場合など3年目くらいまで
後遺症出現の可能性が有るらしいのだ。
左鎖骨が首の方で変な形で出っ張っていたので
関節が外れたのかと思っていたら骨折だった。
人生で初めての骨折だ。
やることは動かさず安静にするしかないことは分かっていたし
レントゲンをやられまくるのは嫌だったので
医者には鎖骨しか言わなかったが
痛みから見てアバラ骨もひびが入っていることは確実だった。
ともかく酷い痛さだった。
大変だったのが横になることと起きることで
この当たり前の動作で息ができなくなり
上半身の様々な場所が悲鳴をあげた。
上さんに手伝われたらしぬほどいたかった。
それで自分で動きを工夫し段取りをつけて慎重に痛みを避けたので
寝るのも起きるのも5分くらいはかかったか。
接骨院には二回行っただけで止めたが
案外と早く体は元どうりになった。
ただ左鎖骨の首の近くだけが右より少し出っ張って固まった。
後日、何か分かるかと落下場所に行ってみた。
柿の木が危険なのは分かっていたから結構太い枝を持って作業していたのだ。
それなのに。
よく分からない。
子供のころからこの年まで
危ないことはずいぶんやったが
大きな落下や骨折などは一度もなかった。
地面は踏み固められた土と15センチくらいの石がぼこぼこ顔を出している。
運よく石と石の間に頭が落ちたのだ。
恐らく地面との衝突は左肩、左肩後ろ、左背中、左後頭部・・・
の順と思われた。
かなりヤバかったのだ。
危うく町内の伝説的人物の一人になるところだった。
普通、何かの失敗からいろいろなことを学ぶ。
ところが今回の落下では何もない。
学ぶどころか怖い目に遭ったという感覚も全然ないのだ。
で、その後あの大台風が山王様を襲ったのだ。
その後の極めて危険な斜面での倒木処理をやってのけられたのは
案外その記憶が無かったからだと思うのだ。
山王様のご配慮だったか ???
・・・・でも、待てよ。ということは俺って相変わらず
・・ばかのまま・・・・・・・・・。
ワンプッシュで
子供のころ
夏の間は毎日海で泳いでいた。
今は埋め立てられ
家が立ち並び工場や巨大モールがあるが
昔は潮が引くとかなり沖までが
一面濡れた砂になる
遠浅の浜だった。
漁船が港に出入りするために
沖まで砂浜を一直線に掘って
水路が作られている。
その水路が「みお」だ。
潮が引いた時のみおは面白くないので
そこで泳ぐ子供はいない。
そして何より
砂浜の面から
急な傾斜で落ち込んでいて危ないからだ。
潮が満ちてくるとみおは海面に隠れる。
そうなると泳げる子供たちにとっては
面白い場所になる。
港の外は水が綺麗だし
ヤドカリや磯巾着や蟹やハゼもいて
そして砂地は足底に気持ちいいのだ。
その日は晴れていて風も波もなかった。
みおの反対側でちょっとした騒ぎが起きた。
自分と同じくらいの子供たち三、四人だ。
一人がバチャバチャやっている。
誰か溺れている。
そこまで泳いでは行ったが
すぐには助けなかった。
私は親から口を酸っぱく教わっていたのだ。
「助けるとき抱き付かれると
二人とも溺れるぞ」。
私は潜りが得意だったので
とっさに潜ってみた。
水が澄んで光り輝いていた。
みおの砂の斜面で足がつかなくなっただけだ。
女の子の足先は砂から30センチもない。
明るく輝く海面と
何のこともない状況に笑ってしまった。
簡単なことだ。
ちょっと押してやればいい。
女の子の下まで潜っていき、
しゃがむようにして女の子の両すねを抱えると
一気に伸びあがるようにして持ち上げ
足底を押して浅い方へ放り投げてやった。
照れくさがり屋だった私は
すぐにみおの反対側に泳いで逃げたのだが
誰かが私のことを言ったらしい。
散々仲間と遊んで家に帰ると
濃縮カルピスのボトルが数本入った
大きな箱が届いていた。
あの子は東京の子供で
夏休みに親の実家に遊びに来ていたらしい。
あの夏、我が家は存分にそのカルピスを楽しんだ。
あの時代、
まだ自販機もアマゾンもなかったが
ワンプッシュでカルピスが届いたのだ。
戦争ごっこ。 いやこれは戦争だ。
あのころ遊びは命懸けだった。
私の家の裏は小さな田んぼで
そこから一段高いところに畑があって
そのまた一段高いところに
結構広い畑地があった。
畑と言っても
何時でも何かが植えられているという分けではなく
私達がそこで遊んでいる時というのは寒い季節で
ただ黄ばんだ茶色の土だけが一面に広がっているだけだった。
その場所で私達は「ゴオロ合戦」に夢中になった。
20人くらいが二手に分かれる。
当然ながら敵意は無い。
ゴオロというのは
土が子供の握りこぶしくらいに固まったもので、
それで雪合戦をやるのだ。
笑い事ではない。
皆、夢中というか必死だ。
当たれば砕けるが
結構痛いし額とかから血を流す子供だっていたからだ。
勇気と度胸とすばっしこさの見せ所だ。
今思うと
「双方による比較的安全な武力行使」を楽しんだのだ。
これは本当に興奮した。
この後の話は信じてくれないかも知れないが、
戦いはエスカレートしたのだ。
武器の使用である。
あの頃の私達が手に入れることのできた武器は
カシの木の木刀と竹で作った弓矢だ。
木刀はどうしてもチャンバラごっこになってしまう。
やはり弓矢が主力兵器となるのは当然の成り行きだ。
私達の弓は
モウソウ竹を割った板に弦を張ったもので
左手で持つ部分が曲がらないように補強したり、
竹の板も漁具の一部として海で使われて
強靭になったものを使うなどして
なかなかのものだった。
矢は私達が「矢竹」と呼ぶ細くて真っすぐな竹を使い
両端の細い方を
弓の弦がはまるように左右から斜めに切り落とし
もう一方には
五寸釘を糸で何十回も巻き固くくくりつけてあった。
殺傷力の為ではない。
矢に羽を付けないので
方向性を持たせるために先端を重くするのだ。
戦場はあの黄ばんだ広大な(?)畑地だ。
両軍とも狙いを絞られないよう
出来るだけ横に広がり対峙する。
未だに先輩たちがなぜあれを始めたのかは
分からない。
戦争は一兵士の感情や思考などとは関係なく始められるのだ。
今、ネットの航空写真から
両軍の距離を算出したところでは
約70mほどでしかないが
子供の目にはもっと距離があるように見えた。
映画と違い
敵の矢は「ビシュッ」っとは飛んでは来ない。
それは斜め45度くらいの上空から
こちらに向かってかすかに揺れるような、
あるいはゆっくりとねじり回転をしながら
やってくる。
先端に5寸釘を光らせて。
敵の矢が放たれたら
出来るだけ早い段階から
それを見続けなければならない。
そして落下軌道を予測し避ける。
安全な瞬間、
前方上空に向け矢を放つ。
繰り返すが五寸釘の矢が
自分に向かって落ちてきた時には
ともかくそれから目を離さない。
後は避ければいいだけだ。
実際、当たり前だけれども
死者は一人も出なかったが、
かといって
全く血を見ないという分けにはいかなかった。
その時、S先輩は私のすぐ近くにいた。
なぜかは分からないが
彼は決してやってはならないことを
やってしまったのだ。
怖くなったのか
敵に背を向けて逃げたのだ。
矢は彼のヒップにプスっと刺さった。
驚いたことにことは
このことは何の騒ぎにもならず
親も怒鳴り込んだりしたとは聞いていない。
多分彼が上手い嘘をついたのだろう。
この尊い血の犠牲により
以後弓矢による戦いは行われることは無くなった。
それは人々が平和を望んだからではない。
馬乗り、戦闘開始、缶蹴りかくれんぼ、そしてゴオロ合戦。
他にも興奮する遊びはいっぱいあったからだ。
sailing(帆走)は、快感!!
私の乗るアクアミューズは
カヌーのようなスタイルだが
れっきとした帆船だ。
ただし三角形の帆は一枚で
それを操作するロープも滑車も
これ以上ないほど簡略されたものだ。
進水式の日には
パドリングを楽しんだだけだったので、
次の休みにはセールやマストやら一式積み込み
あの亀山湖に出かけた。
女房殿も面白がって付き合ってくれた。
説明書を読んだ記憶を頼りにロープを結び
それを滑車に通し
マストを立て帆も取り付けた。
大して迷うことなく出帆の用意は整った。
二人で舟を浮かべ先に彼女に乗り込んでもらう。
アクアミューズは軽すぎて
端っこに体重をかけると簡単にひっくり返る。
シーソーの反対側に赤ん坊が乗った状態だ。
しかし思いきって真ん中に乗り込んでしまえば安定性する。
パドルで岸から十分に離れた水面まで行く。
ともかくセールに風をはらませればいいのだ。
メインシートを引いてみる。
実はセーリングというものはこれが初めてなのだ。
一応、本で読んだ理屈だけは知っている。
風上には左右45度の角度までしか走れないこと。
船底から突き出したセンターボードという板で
横流れを止めること。
舵もセンターボードも
舟が走っていなければ効かないこと。
それ位だ。
木々に囲まれた水面は狭く、
風はほとんど無いっと言ってもいいくらい弱かった。
メインシートは最初は何の手ごたえもなかった。
手ごたえを感じセールがふわっと膨らむと
舟はゆっくりと走り出した。
風の力で走っていることだけで、
いい気分だった。
初めてにしては全てが順調で簡単だった。
この時風が弱かったのは大変な幸運であったことを
後日散々知ることになる。
私達が出艇したところは亀山湖畔公園で
そのあたりは水路の幅が
50メートルほどしかないのだが
風が優しかったおかげで
余裕で方向転換を何度か成功させ
子供が歩くような速度で
ダムサイトの在る広い湖面に向かった。
大きくて高い橋が見えてきて
右には貸ボート屋さんの桟橋が見える。
橋をくぐると眺めが一変し
立派な赤い鳥居と広い湖面と
岸で釣りをしている人達が見えた。
そしてそこにいい風があった。
セールがパンと張って急にスピードが出てしぶきが後ろに流れ艇がグーーッとヒールした。
彼女が「きゃーーーー」と悲鳴をあげた。
ヤバイ。怖がらせてしまった。と思ったが違った。
「かっこイイイーーー」っと叫んだのだ。
注、彼女はヤンキーではないしお下劣ではない・・・
彼女は傾いたまま走る。その魅力にしびれたのだ。
で、アクァミューズのことにはいろいろ協力的で理解を示してくれる。
・・・・・そうだったかと今思った。
奥穂高・ジャンダルム、そして幸運
あの日、
夜の中央高速道を風と一緒に走っていた。
しぶきとなって流される雨粒と
大量の葉っぱや小枝が
ゆっくり私の車を追い越して路面をうねっていく。
天気予報では
台風はとっくに日本海の方を通過してしまうはずなのに。
高速から一般道へ下り山道に入ると
路面が細かな濡れて黒く見える
おびただしい小枝で一面に覆われていた。
かなり吹いた証拠だ。
スリップを用心し車を走らせる。
駐車場は台風だというのに結構な台数だ。
さすが紅葉の季節だ。
毛布にくるまって眠った。
目を覚ますと星が光っている。
まだ早いと寝ようとするが眠れるはずがなく
着替えと腹ごしらえをして持ち物を確認する。
何をするにも狭い車内は効率が悪く
用意が終わったのはバスの出発間際だった。
上高地では河童橋は渡らず
梓川を左に見て歩き
徳沢、横尾から涸沢に向かった。
途中で下山してくる女性グループと立ち話になった。
昨晩はそれはもう物凄い大風が吹き
あの涸沢のテント群でも
幾つものテントが飛ばされ
ヒュッテの室内でも怖くって
とてもではないが眠れなかったという。
それにしては皆さん
とっても元気で何か嬉しそうだった。
この後すぐに分かったのだけれど
彼女たちはとってもラッキーで
私達はアンラッキーだったのだ。
かなり歩いて木々の間に灰色っぽい斜面が見えた。
このルートは初めてだったのでそれがあの「涸沢」とは分からなかった。
突然前を歩いていた3人組が「ええー」とか言い始め、
やがてちょっとした騒ぎになった。
聞くと
「もう例年、ここまで来れば来ればもう真っ赤な紅葉が見えるはずだ、
おかしい]というのだ。
私はどちらかと言えば断然新緑派の方で
別段がっかりなどしないが
この季節このルートを歩く人のほぼ全ては
あの「涸沢の紅葉」を見に来るのだ。
実際涸沢についてみると
そこにあるはずの真っ赤な紅葉はどこにもなかった。
ヒュッテのテラスから見る涸沢は
空が真っ青なせいもあって、
それはもう現実離れした眺めだった。
空の青,鋭い鋸の刃のような稜線、
灰色がかった巨大な斜面、
へばり付くわずかな緑、完璧だ。
その眺めの中にあのザイテングラートを見つけた。
そこだけは緑が濃く盛り上がて
真っすぐ穂高の稜線に向かっている。
少し休んだだけで出発する。
ヒュッテからザイテンまでは結構な距離で、
しかも大斜面を大きな折り返しを重ねて登っていく。
ほとんどの人は涸沢までで
この大斜面では一人にしか会わなかった。
涸沢を見下ろす場所にいたその女性には驚いた。
家族でヒュッテに1週間いるのだという。
う、うらやましいいーー。
ザイテンは慎重に上った。
一見木なども生えている普通の山のようなルートだった。
しかし今年だけでも3人の方が滑落し亡くなったと
奥穂高山荘の八郎さんという方がブログで書いてあった。
それほど急ではないが
傾けた円筒の曲面のような地形はよろめいたりして
少しでも踏み外すと
加速度的に傾斜が増し最悪に向かうのかも知れない。
登るにつれ寒くなりフリースを着たが、
それでも寒くなってついにはストームクルーザー
(透湿能力の高い雨具)を着たのだけれど、
それでも震えが止まらない。
山小屋に着いた時には
もう自分では止められないくらい歯がガチガチ言っていた。
受付のお姉さんに震える声で飲み物をを頼んだのだけれど
その温かい飲み物が何だったか全く覚えていない。
温かそうに燃える白い円筒形のストーブがあって、
そこにはブロンドの女性がいたのだが
日本の印象悪化など考えている場合ではなく両足でストーブを挟んだ。
奥穂のその有名なそのテント場は
石垣を積んだ段々畑のような造りでしかも狭い。
私の2人用ドームテントピッタリくらいしかなく
私のスキルではロープなんかまともには張れない。
そしてそれよりも何よりビビったのはお隣の方だ。
その向こう隣の人にたいし
テント場のマナーについて説教していたのだ。
ビビったがいかにも山屋という人で
言っていることもまっとうだったので丁寧に挨拶をしておいた。
明日は槍ヶ岳へ行くという。
朝、暗いうちに目を覚ますと
隣りはもうきれいさっぱり何もなかった。
絵に書いたような山屋の「早立ち」だ。
山小屋前は朝日を待つ人でにぎやかになってきたが私は支度を急いだ。
荷物のほとんどをテントに残し身軽にして奥穂高山頂を狙う。
用意ができたところで歓声が上がり雲が真っ赤に染まり見事なご来光になる。
私も思わず手を合わせた。
さすが奥穂だ。
登り始めてすぐ今までの登山には無かったヤバさを感じた。
それも山小屋のすぐそばで始まったのにはビビった。
雪山シーズンにはここにネットが張られる。
滑落者がそこに引っかかると何かで読んだ記憶がある。
山頂までのルートは全部がゴロゴロした岩の斜面で
それがずっと天まで続く。
左が頂上のように見えたが間違いで右に登り返す。
岩だけのつづら織をひたすら上がる。
ついに日本3位の高峰、
奥穂高岳山頂に着いた。
石とコンクリートでできた小さな社があって
先ずは手を合わせる。
空は晴れ風も吹かず周りの山々も見事で
雲は下にしかなくそれは湖のように見える。
心の底から幸せを感じた。
この奥穂山頂は私の登山の中でも頂点なのだ。
J君と日光男体山に登って登山が始まって、
谷側岳、仙丈ケ岳、北岳、槍ヶ岳、甲斐駒畔戸尾根
そしてついに今憧れの奥穂高山頂にいるのだ。
山道具も最初からこの山を想定して買いそろえたのだ。
で、その時だ。
山岳写真でよく見る超有名な眺めが
目の前にあることに気付いてビックリする。
「ジャンダルム」だ。
その手前、
すぐそこにはナイフエッジと形容されるあの「馬の背」もある。
そしてそれはロープを使わない
一般登山ルートでは最難関と言われるルートだ。
それがすぐそこに在る。
私が行ってはいけない世界だが見るだけなら問題ない。
奥穂山頂からそっちに行ってみる。
近くに見れば馬の背は確かにエッジだが逆に手を掛けやすく見えた。
エッジの右側の5メートルくらい下では
ロープで結び合った3人パーティーが難儀している。
やはりエッジを行くのが正解だ。
行ってみることにする。
禁断の園に足を踏み入れた。?
ナイフエッジの左下五、六十センチあたりには
板状の岩の厚み七、八センチほどの足を掛けられるラインが有り
エッジを持つと案外恐怖は無かった。
確かに足の下を覗けば高度感はもの凄い。
緊張はしたけれども、それよりも何よりも
自分がナイフエッジにいることがすごい。
その先で一度大きく斜面を下っていき、
そこからまた昇り返しその先の断崖絶壁をトラバースする。
ナイフエッジよりこのトラバースの方が怖い。
三点支持を徹底する。
ジャンダルムの下まで来た。
初心者向け攻略方は以前何かで読んで知っていた。
裾を左に巻いていき裏側から登ればいいのだ。
裏側の岩の斜面はやや傾斜が緩く簡単に上がれた。
頂上にはあの有名な天使のレリーフもちゃんとあった。
ジャンダルムの上からの眺めはそれはもう格別だった。
帰りは涸沢ヒュッテによって
絶景のテラスでビールを飲み涸沢の眺めを満喫した。
この思い出には「落ちは無い」・・・
登山だから・・・
・・・お粗末でした。
浜っ子の夏は
昔は遠浅の海でした。
こう、書いてアレ、待てよ、
遠浅の海って
珍しくないのかって気付きました。
そう言えば
私が昔見ていたような
海の眺めはTVや映画でも
ほとんど見た記憶がありません。
引き潮の時には
濡れると少し黒っぽく見える
貝殻混じりの砂の平原が
ずっと沖まで広がっていました。
砂が乾くことは無く
ごく浅い潮たまりもあって
いろいろな生き物もいました。
ヤドカリやイソギンチャクを
かまってみたり
蟹穴をつっついてみたり
数え切れない数の小さな蟹が
穴を出たり入ったりするのを眺めたりして
潮が上げてくるのを待ちます。
あげ潮は10センチ/秒くらいの速さで
砂の上をチョロチョロとやってきます。
そして嬉しいことに
長い距離をやってくるので
太陽に温められて、
いいお湯かげんになっていて
それはもうとても気持ちいいのです。
腰のあたりまでの深さになれば
海底が平らな砂地で
危ない深みもないし
大波も立たない
子供達には最高の遊び場になります。
取っ組み合ったり騎馬戦やったりして
もうおもしろくって誰も海から上がりません。
手の指がふやけて
白くしわだらけになるのなんて普通でした。
それで潮時の加減で
遊びが夕方にかかった時などは
波打ち際は「早く上がれー」と
子供を呼ぶお母さんたちが
ずらっと並んでしまうのです。
それでもなかなか上がらないので、
上がった時には何人かは
頭をパカッとはたかれたりするのですが、
私には、はたかれた記憶がありません。
そもそも母が浜に迎えに来たことは
一度もなかった。
父は
父は働き者の漁師でした。
そして喧嘩に強い
それでいて優しい男でした。
冬には海苔をやり
夏には毎晩漁に出ました。
「てぐり網」とか
「三枚網(サンメアミ)」とか
「底引き網」とかの漁法で
いろんな魚だけでなく
「シャコ」や「クルマエビ」などもとっていました。
サンメアミというのは文字どうりで、
網の目の大きさが違う帯状の網を三枚重ねて
それを海中に壁のように張って魚を取るのです。
上部の縁には細い紡錘形の浮きがずらっと並び
下部には紡錘形の鉛が付けられています。
魚が網にかかると三枚が複雑に絡みつき、
そうするともう魚は逃げられません。
家の庭に手入れの為に長い竹竿に、
横に広げた形でつりさげられていた
そのサンメアミに
在ろうことか
大きな蛇が入り込んでしまったのです。
青大将でした。
私たちが父を呼んできた時にはもう絡んで
蛇は抜け出せませんでした。
父は素手で蛇を掴み、
絡みをほどこうと一生懸命でしたが
青大将も激しくうねり逃げようとして
逆に益々網が幾重にも絡みつき、
しまいには玉のようになってしまいました。
父の怪力をもってしても
どうしようもありません。
もう網を切るしかありません。
父が裁ち鋏(大きなハサミ)
を持ってきました。
そしてチョッキン、
チョッキンと
生きた青大将を切った。
父は (2)
家の裏は水田で
水のない冬の間は
そこを借りて
アサクサノリの海苔干し場にする。
杉の丸太を何本も直線的に打って
それに孟宗竹の竿を何段かに渡し
稲ワラをそこに括り付け
大人の背丈より高いワラの塀を作り風よけにして
そこであの四角い海苔の
びしょびしょなやつを
何百枚も一度に天日干しするのだ。
海苔を乾すにはわらの壁に竹串で止める方法と
もう一つは紙を貼っていない障子のようなものに
U字型の釘を打ち付けた「おおさか」に
海苔ずを並べて乾す方法がある。
「おおさか」は一つに20枚ほど並べて乾すので
太陽の向きに合わせたりできるし、
天候の急変などで急いで取り込む時などは
それを三つ、四つ重ねて運ぶこともできる。
それを何枚重ねて持てるかは
家の手伝いをする子供にとって
ちょっとしたプライドにかかわることでもあった。
子供たちも忙しい時期には
学校に行く前に乗り乾しを手伝った。
学校から帰ると
乾いてパリとした海苔を取り込み
海苔ずから剥がすのもやった。
夏のころはそのオオサカが
何十も物置の軒下に立て重ねて保管されている。
家の境は屏ではなく竹藪で
その端っこが木戸になっていて、
そこに琵琶の木があった。
幹の直径は20センチくらいはあったか。
立って手を伸ばして
やっと届く辺りまでは枝が無く登り辛い。
私と言えば木登りは得意だったので
枝に飛びつき懸垂をして簡単に上っていた。
二本の太い二股枝に
指の太さほどのロープを
何往復かさせて座れるようにしてあって、
そこでよく本を読んだりした。
琵琶の葉のちょっとくすんだつやのないのも
なんとなく好きだった。
その琵琶の葉に囲まれた木の上は
そこにいるだけでいい気分になれた。
琵琶の実がなるともう食べ放題だった。
手入れや、まして剪定などしない琵琶の実は
凄い数の実を付けるのだ。
大きくは無かったが十分に美味しかった。
よく熟れた皮をむくと
かすかに赤みがかかった果肉が現れる。
琵琶は果肉のわりに種がとてもでかい。
それで琵琶を良くいわない人がいるが、
買って食べる場合そういう気持ちになるのは分かる。
木の上で食べる琵琶は文句なく美味しかった。
竹藪の外は小道になっていて、
しかも琵琶の枝が垂れ下がっているので
琵琶をつまみ食いする人はが結構いた。
それは何の問題もなかったのだが、
その内の何人かがすぐわきに在る物置の軒下から
「おおさか」を持ってきて梯子代わりに使うのにはまいった。
「おおさか」は軽く作るため横桟はきゃしゃだ。
琵琶泥棒さんは少しは気を使っているらしく
弐三枚を重ねてそこに足を掛けているのだが
どうしたってそこが割れる。
ある日、私が修学旅行から帰って見たら
私の琵琶の木は切り倒され割られて風呂のまきになっていた。
実に父の判断は的確であった・・・?
つづく***いや、・・・・終わり。
おばあちゃんの実家は
御婆さんは乗り物酔いが酷かった。
それで実家に帰る時には歩いた。
10キロはあるだろう。
おばあさん子であった私は
一緒に歩いて行ったらしい。
そのころ履いていたお洒落な革靴がとってあったが
靴底で測って8センチくらいだ。
その内、バスや車を使うようになったのだが、
車酔いのせいもあって
ともかく行くと何日も泊まることになるのが普通だった。
実家は古い農家で
墓参りに行った時には驚かされた。
両側に向かい合った墓石が20位並んだ一角が全て実家の墓所だった
そのころまだ乳牛を飼っていておじさんが乳を絞り
それを井戸で冷やしてから飲ませてくれた。
その井戸は電動ポンプでもガチャポンでもなく
「釣瓶井戸」だ。
竹の長い竿の井戸の方にはロープに結んだ桶が、
もう一方には重しがついているやつだ。
冷やしてくれた牛乳は多分砂糖なんかも入れてくれたのだろうが
味も濃くって美味しかった。
スイカなどもその釣瓶井戸で冷やすと美味かった。
私の住む漁師町とは違い静かでゆったりとしていた。
牛や虫や花や土や草や石段。何もかも珍しかった。
私はちょこまこ歩き回り初めての迷子にもなった。
誰かが送り届けてくれたし
大騒ぎなどにはならない迷子だったが
さまよったことははっきりと記憶にある。
実家には4人の子供がいて歳もそんなには離れてはいなかった。
近所の同じくらいの歳の子供がのぞきに来たりもした。
彼は縁側に立つ私を見上げて
「われはどっから来ただ」っといった。
あの頃は人々の移動は限られた地域内であり、
よそに出かけたときにはこの後も何度か言われた。
大きな家なので寝るところは十分にあったが
子供たちだけで納屋で寝ることもあった。
使いこまれ黒光りした木の階段を上がると
納屋の二階には稲ワラが積まれていて
その上でおしゃべりしたり眠ったりするのだ。
おじいさんも御婆さんも優しいし,
おじさんもおばさんも優しいし
楽しい思い出ばかりだ。
私は生まれてからずっと今の家に住んでいるので
ふるさとという感覚が無い。
おばあさんの実家がどうやら私にとってのそれに近いかも
フクロウの中で
隣のs君は同い年だ。
彼はトンボとりの名人でトンボ博士だった。
その日、三人か四人だったと思うが
私たちは日枝神社(山王様)の森、
その北側の斜面にいた。
そこは広葉樹が高く覆い、
わずかに木漏れ日が差すだけで
下草はほとんどなく
地面は枯れ葉で厚く覆われ
土は黒っぽくてふかふかだ。
斜面の大木はほとんどがやや下側に傾いていて
そのうちの一本はほぼ水平に長くのびていて
私のお気に入りだった。
幹の途中には上に伸びた枝が一本あるだけで
先に進むほど地面は下がりかなりの高さになる。
したがってその上を歩いて
枝葉のあるところまで行けるのは何人もいなかった。
私はそのうちの一人というわけだ。
そこに行くと
木々に邪魔されず町内の家々や海を見ることができた。
その時、私達はその木の下の斜面にいた。
土が流された粘土質の滑りやすい場所だ。
S君の顔がぴくっといったので
彼の視線の先を見た。
一羽のフクロウが
私たちの立つ谷筋を上の方から滑空してくる。
私たちの横を抜けようとしたとき
s君がトンボ網をしゅっと振ると、
なんとフクロウが網に入ったのだ。
S君のお父さんが
金網を張った木箱を何処からか持ち出してきた。
この時代、
野生動物を捕まえて飼うのはよくある事だった。
さっそくフクロウに何かを食べさせてやらなければならない。
セミかごの中に捕ったばかりのアブラゼミがいた。
セミを頭の方から丸のみだ。
ネズミくらいでも丸のみなのだから当然だが
その時は知らなかった。
「スゲー」とかいってみんな驚いた。
そしてセミがフクロウの中で二度ほど
ミーンミーーンと鳴いた。
これには本当にみんなびっくりした。
リスと少年たち
その日、私達は日枝神社(山王様)の森の一番奥、
その先は裏山とよぶところとの境にいた。
その時、弓矢を持っていたのは戦いのためではなく
それが子供たちの標準装備だったからだ。
獲物を捕るためでもなかった。
ただ私に限っては、獲物を捕ることは夢だった。
大人になった今は生き物を殺すことにいちいち抵抗がある。
もし鹿か何かがいても恐らく撃てないだろう。
この現代の大人の感覚を持ったことは
男にとって不幸であり退屈な人生の原因だ。
恐らく狩猟こそ男の仕事なのだ。
釣りもゴルフもゲームも戦争でさえも
狩猟の代用品なのだと思う。
狩猟はたぶん一番面白いと思う。
あの日私達は木の上にリスを見つけたのだ。
可愛いなどと眺める時代ではなく
当然リスを追いかけまわし弓矢を打ちまくりました。
もうみんな夢中でした。
リスは素早く枝伝いに木から木へ逃げます。
かなり追い詰めたと思っても
細い枝を伝わって隣の木に移ります。
普通ならリスの逃げ切りです。
しかし子供たちの目はいいし
弓矢という飛び道具があるので終わりません。
最後は矢が無くなってリスは逃げてしまいました。
でもみんな大はしゃぎで大満足でした。
もし矢が当たりリスが死んだら
たぶん声も出なかったのではないかと思う。
マムシ 怖い?
うちの庭で
父とサッシやさんが立ち話をしている時
サッシやさんが
二人の間の足元を見て言ったのだそうです。
「あれマムシだ」・・・・
マムシは捕まえられ一升ビンに入れられました。
私は後で子供たちに見せようと思っていたのですが
子供たちが学校から帰ってくる前にその一升瓶は
三本のお酒をひもで結わえたのに変わっていました。
話好きなサッシやさんが知り合いの大工に話したら
速攻でもらいに来たらしい。
庭の東はHさんの田んぼで山に近く
絞れ水も流れマムシが多い。
子供のころ、そこのおばさんがマムシをつかまえ
大騒ぎしているのを何度か見た。
おばさんはさすがにマムシは怖いらしく
特殊な道具をいつも用意していたようだ。
長い竹の棒の先端を二つに裂きその間に短い棒を挟んでおく。
それでマムシを突っつくと
挟んだ棒が外れマムシが挟まれるという仕掛けだ。
我が家ではよく清和の高宕山(たかごやま)に登った。
怒田沢からのルートは左が谷で右が切通の斜面だ。
その斜面にマムシがいるのを見つけた。
絵に書いたようにきれいにとぐろを巻いている。
「ほら、これがマムシだよ。頭が三角で・・」
で、上さんと子供たちは何をしたかというと
全員マムシに近寄って携帯で写し始めたのです。
マムシよりもそっちにびっくりです。
携帯のカメラってピント測定に赤外線使ってなかったか、
マムシも赤外線探知じゃなかったか?
だるま舟と冒険
夏休みはたいてい海です。
歩いて5分ですから家から海パンです。
遠浅の砂浜でしたが
港ではいつでも泳ぐことができました。
港には造船所もあったので
漁船以外にも「だるま舟」と呼ばれる大型の艀が
何隻か修理待ちでつながれていた。
船体はものすごく厚みのある木製で
艶のある部分などどこにもなく
油かコールタールをしみこませたように黒っぽい船です。
エンジンなどなく船員もいない。
防波堤の内側に横づけされる形でつながれていた。
これが子供たちにとっては最高の遊び場だった。
飛び込みをするにも防波堤の裾は浅い。
だるま舟の上からなら水深が十分あったし
海面からの高さもかなりあったからだ。
一度防波堤に上がりそこからよじ登る。
どのくらいの高さかというと
Tさんという人がが船べりから飛び込んだら
海パンが脱げて分からなくなり
仲間が周りを囲んで家まで帰ったという事があったくらいだ。
これには「海パンのゴムが緩かったんだ」とか
「俺だったらつま先に引っ掛ける」とか
「奴はとろい」とかいろいろな説があるのだが。
なぜ取り囲んで帰ったかと言えば
だれもお上品にタオルやTシャツなどもってきていないからだ。
だるま舟は飛び込み台として使われるだけでなく、
ちょっとした冒険の舞台ともなった。
船底をくぐるのだ。当然最短の横方向にだ。
遊びの邪魔になるので誰も水中眼鏡など持ってこない。
大抵の子供は目をつむって潜る。
頭上に空気は無く巨大な物体があるというのは結構怖い。
結構怖いどころか物凄く怖い。
実際方向が狂い、なかなか海面に出られなかった子供もいて
でてきたときには必死の形相だ。
今思うとだるま舟で遊んでいた子供が
誰も死んでいないという事が奇跡に思える。
父の舟。その進水式
父の舟は伝統的な和船で、
船首は一枚の板がぐっと張り出し
四角い帆が一枚、
よく浮世絵などにも描かれるあの形です。
しいて言えばあの絵に見る千石船より
ずっと船べりは低く細身で美しかった。
当時はもうディーゼルエンジンや
ガソリンエンジンの漁船も作られるようになっていましたが
父のエンジンは灯油を燃料とする「焼玉式エンジン」で
あの江戸時代のような四角い帆も使っていました。
漁師の次男として生まれた父ですが
九人兄弟でもあり
おじいさんも厳しい人であったため
その船は親戚から借金をして
ようやく作ったのでした。
地元で「ふなおろし」と呼ぶ進水式のことはよく覚えています。
知人親戚が集まりお祝いしてくれました。
私は小学校に行く前だと思いますが、
その時初めてお神酒という事で
酒を湯呑で飲まされました。
特に気持ちが悪くなったという記憶はないので、
多分酔っ払ったのだと思う。
みな父の舟をほめていました。
父は船大工にかなりの割り増しを出して
最高の材料である目の詰まった赤みの強い硬い木で作らせたのです。
舟を浮かべるとみんなで乗り込み。
そして全員で舟を大きく何度も揺らすのです。
子供でしたが長男である私も乗せられました。
船べりが水につくくらい大きく揺らすのです。
みんな笑い大きな声で何かを言い合いちょっとした狂乱です。
父が近くにいたかどうかの記憶はありません。
私は船べりにしがみついていました。
その上下する船べりは
隣に浮かぶ舟とはわずかしか離れていません。
ついには擦れるところまで近づきます。
私はその瞬間的に手を逃がしたのです。
今思うと、あのとき、手でも挟んだら
祝いをぶち壊し
縁起も悪くし、
それこそ大騒ぎになっていただろう。
私はあの瞬間、
私はちょっとしたファインプレイをやったのだろう。
イタチ
お婆さんは鶏を飼っていました。
イタチはその鶏を殺し血を吸うのです。
鶏小屋の金網の裾部分は
15センチくらい地面に埋められているのですが
イタチはそれ以上深く穴を掘り,
侵入して鶏を殺すのです。
誰もイタチの犯行を目撃はしていないのですが
大人にはそれがイタチの仕業だと分かるらしいのです。
ある夏の日の午後、裏木戸のそばで何かが動くのを見たのです。
それは割れたコンクリートブロックが折り重なった
小さな山の中に消えました。
私は弓矢を手にそっと近づきました。
ブロックの大きな隙間に
イタチはいました。
距離はわずか2メートルほどです。
私の気配は感じているはずですがじっとして動きません。
私は弓を引き絞ります。
こんなに近くでははずれるはずがありません。
さらに強く弓を引き絞り矢を放ちました。
矢はブロックで跳ね返り、イタチは逃げ去りました。
子供にあの場面で平常心など無理と言えば無理でしょう。
このせいかどうかは分からないが
以後イタチによる殺戮はなくなった。
アマモの森で
お風呂五右衛門
テレビはミカン箱のsannjisann
一発なみ。子供が、、、
男体山はぶーどキャンプ
港横断
ウサギと競争
忍者養成学校
樹上の王国
防空壕は怖い
鹿野山を夜走ると後ろの席には
トンビ
舵取り
夕日に帆上げて
港横断
樹上の遊び場
本家の餅つき大会
木更津のお婆さん
おじいさん
本家のおじいさん
交通事故
烏賊漁
男体山はブードキャンプ